「働き盛りの過労自殺と企業責任・労災補償」
~川崎製鉄渡辺過労自殺事件
(清水 善朗 会員)
第1 事案の概要
大手製鉄会社K社の中間管理職であったAさんは,1991年6月20日午後5時15分ころ水島製鉄所本館ビル屋上から飛び下り自殺した(当時41歳)。
Aさんは,工程部条鋼工程課という鉄鋼生産の生産工程の管理(注文を受けてから製造し出荷するまでの工程の管理)を担当する部署に所属していた。
1988年以降の好景気による土木建設用鋼材の増産に対応し,1989年に生産を開始したスーパーハイスレンドH鋼(従来のH鋼よりも肉薄であるが強度は遜色ないというもの~以下SHHと略称する)という製品の生産を軌道に乗せるために,従来から早くても午後10時頃に帰宅するという状態にあり,休日出勤も常態化していた。
Aさんは,1991年1月1日付けで掛長(かかりちょう-係長と同じ)に昇進した。昇進後も,増産の要請は変わらなかった。東京湾横断道の工事に使うための37メートルもの長さの矢板や,SHHの製造は,一旦製造してもひずみが生じやすいため出荷するためには更に手を加えなければならなかった。その作業の場所を確保するため,他の製品の生産を妨げるという問題があった。その結果,注文が多いにも関わらず納期遅れが生じ,生産管理を担当する部署にあったAさんは,これら製造困難な製品をいかにスムーズに製造するかという課題を抱えていた。また経験のある掛員が配転となって経験のない者に交代したことからその部下の指導にも苦慮していた。質的にも量的にも仕事は増え,毎晩のように深夜まで残業をし,ほとんどの休日にも出勤していた。1991年は1月1日から死亡する6月20日までの間で完全に休んだ休日は2日だけ,課せられた課題を完遂するために掛員を教育し,稼働させるために苦慮していた。
1991年3月ころから,異常な寝汗・微熱を覚えるようになり,温厚な性格であったのが,理由もなく突然怒鳴ったりするようになっていた。K社の経営するK社水島病院に二度通院し,検査や治療を受けたものの症状は改善しなかった。亡くなる前には,「仕事が思うように進まない。死にたい気持ちだ。わしは馬車馬か」と誰に言うともなく怒鳴ったこともあった。
このように説明すると仕事だけの人間のように受け取られそうだが,晩酌をしながらギターを爪弾き,子供たちと冗談を言い合う,会社の懇親会では進んで場を盛り上げるという愉快な人だった。また,学歴によってのみ社員を評価する上司に対しては,率直に批判するという健全な考え方の持ち主で,会社からは,仕事の上での能力,人格とも最上級の評価を受けていた。
第2 妻の信念
Aさんの妻Sさんは,死亡当日上司に対して過労死だと訴え,調査するよう申し入れていた。しかし,K社側が妻の要求に応えることはなかった。
Sさんは,藁をもつかむ思いで労基署や,裁判所に相談を持ちかけ,裁判所の女性職員から弁護士に相談するようにアドバイスされ,私が相談を受けることになった。1991年7月のことであった。
「夫は決して逃げたのではない。仕事に殺されたのだ。それを明らかにしたい」とのSさんの一途な気持ちからの出発だった。
第3 賠償請求と労災申請
丁度その頃大阪で過労死事件の経験を積み,岡山に登録替えをした山本勝敏弁護士と二人三脚で事実関係の調査に取り組んだ。Sさんからの聴き取りや,K社の社内報や労働組合ニュースの分析を通じて,当時のK社を取り巻く状況やAさんの所属していたグループの状況を明らかにし,1993年7月には証拠保全手続によってK社水島工場とK社の運営する病院から,Aさんの勤務状態に関する資料やカルテを入手した。労災事件で証拠保全手続を実施するのは初めての経験であったが,証拠隠滅を防止すると同時に労働実態に関わる資料を手に入れるために不可欠と判断して実施した。この証拠保全によって,後に貴重な証拠となる,新任掛長研修でのレポート(掛長に就任してからの苦労を記したレポート)を入手できた。
証拠保全後に,K社に対して謝罪と賠償を求めて交渉を申し入れたが,K社が拒否したため,1994年6月15日岡山地方裁判所倉敷支部にK社に対する損害賠償を求める訴えを提起すると同時に,倉敷労働基準監督署長に労災の申請を行った。
当時,過労死弁護団の会議で亡林豊太郎弁護士から飯島事件(労災認定)の困難な闘いの報告を聞いていた程度で,過労死弁護団でも自殺についてはあまり取り上げられていなかった。また,亡藤本正弁護士が電通事件(損害賠償)に取り組んでいたのであるが,1996年10月長崎で行われた過労死弁護団総会で報告されるまで電通事件のことは知らなかった。その後,教えを請うため私と山本勝敏弁護士は九段にあった藤本弁護士の事務所を訪問したことがある。事件を見る視点を聞き,準備書面等をいただいたことも収穫だったが,電通側の書面に対して翌日に反論の準備書面を提出するため徹夜していた等のエピソードを語る熱っぽい語りからいただいた元気が何よりだった。まさに弁護士生命を賭けておられた。
裁判と同時に労災申請したのは,労基署主導で行われ,調査内容・事実評価とも労基署が恣意的に行う危険性がある労災手続を少しでも適正に行わせるためであった。裁判手続によって得られた証拠をそのまま労災の判断資料として提出することによって,労災手続の恣意性を排除し,労基署も事実に基づいた判断をさせることができると考えたからだった。
第4 損害賠償訴訟
岡山地方裁判所倉敷支部(小原卓雄裁判官-後に浜本丈夫裁判官に交替)で審理された損害賠償請求訴訟では,以下の四つの争点を中心に審理を行い,1998年2月23日原告(遺族)側勝訴の判決が言い渡された。裁判所の判断を紹介する。
1 過労実態
原告(遺族)側は,前記のように質的にも量的にも過重な労働があったと主張してきた。これに対して,被告(K社)側は,Aさんは「管理の地位にある者」(労働基準法第41条2号)であるから,就業時間の管理は自分自身で行う立場にあったとし,Aさんの労働時間については知らないと答弁していた。
判決では,まずAさんが「管理の地位にある者」(労働基準法41条2号)に該当し,就業時間の管理は自分自身で行う立場にあったとの被告の主張について,「管理職とはいっても一番下の掛長であり・・・それ程高額な給与を受けていたわけでもなく・・・経営方針や労働条件の決定についての権限を有しておらず,職務遂行について広い裁量権を有していたわけでもない」から「管理の地位にある者」に該当しないと判断し,被告の主張を退けた。これは,従来からの解釈に従った判断であった。
さらに,「被告においては,平成2,3年当時,一般の社員は1月17~8時間から24~5時間までの残業手当を請求するのが通例であったところ,実際の残業や休日出勤はこれをはるかに越えているのが常態化していた(いわゆるサービス残業)」と認めたうえで,Aさんの労働実態につき「年間に引き直すと4420時間となり,過労死の年間平均労働時間3000時間を越え,所定労働時間の約2・3倍であって,社会通念上許される範囲をはるかに越え,常軌を逸した長時間労働をしていたものというべきである」と異常な長時間労働の実態を明確に認めた。
本件では,Aさんの労働時間を記録したものはなかったが,出勤帰宅時間についての妻の証言とそれに沿った内容の同僚の証言から右労働実態を認定したのであった。
2 自殺の原因(過労と自殺との因果関係)
本件では,Aさんがうつ病に罹患し,うつ病からくる希死念慮の結果自殺にいたった,という経過について原・被告間に争いはなかった。
争いとなったのは,うつ病の原因が過労か否かという点であった。
原告は,前記のような量的にも質的にも過重な労働が原因と主張したのに対し,被告はAさんの責任感が強く,几帳面で,完成欲が強いという性格から適当に仕事を処理することができず,自己に鞭打ち続けて心身ともに疲労困憊に陥った。さらに,その焦燥感を紛らわせるために毎日多量の飲酒を続け正常な睡眠を妨げたこと等がうつ病の原因であると主張していた。
この争点について判決は,被告の主張を退け,業務上の過重な負荷がうつ病の原因と認定した。
本件では医学的証拠として,原告側からN医師の意見書を提出し,被告側からはO医師の意見書が提出され,O医師の証人尋問が行われていた。
N医師意見書は意見書作成段階までの審理を通じて明らかになっていた労働実態に関する書証や証言を詳細に検討し,Aさんがうつ病から自殺にいたった経過を詳細克つ説得的に跡付けるものであった。これに対し,O医師意見書では労働実態と病態との関係の検討が抜け落ちていた。その理由についてO医師は,「(同証人との打合せにあたった被告担当者が)掛長になっても仕事の内容はそれほど変わっていない」と言っていたので,労働実態について検討しなかったと証言した。
このような両医師の意見の質的な違いが,裁判所を右のような判断に導いたと考えられる。
3 被告の責任(安全配慮義務違反)
原告は,Aさんが前記のような殺人的な労働条件にあったことは被告も把握しており,こうした過重な労働があれば労働者の健康に支障を及ぼし,死を招来する危険があることは予見可能である。にもかかわらず,被告は労働時間の実態把握を怠り,過重労働を軽減する措置をとっていなかった。労働者の健康管理体制も機能していなかったと主張した。
被告は,Aさんに自殺の予告兆候はなく予見可能性はなかった。労働時間はAさんが自ら管理すべきであり,被告は従業員の健康管理体制もとっていたと反論していた。
判決は,Aにおいて長時間残業と休日出勤が常態化していたことを上司は把握していたはずであり,1991年春頃AがK社の経営する病院に通院した頃,Aが疲れているように感じていたにもかかわらず,業務上の負荷ないし長時間労働を減少させるための具体的方策を採らなかったこと,使用者の労働時間管理は,使用者が労働時間の実態を把握することが第一歩であるところ,被告には職員の残業時間を把握するための体制がなかったことなどから,安全配慮義務違反を認定した。
4 賠償の範囲(損害額の控除)
被告は,仮に過重労働がうつ病・自殺の原因であったとしても,本人の性格,毎日の多量の飲酒もうつ病の原因となっている。Aさん自ら通院を中断したこと,妻もAさんの異常な言動に気づいていたのに専門医の診察を受けさせる等適切な対応を怠ったこと等の落ち度があるから,損害額の九割を減額すべきであると主張した。
これに対して,原告は真面目で几帳面な性格というのはごく普通に見られるものであり賠償額を定めるにあたって斟酌すべきではない。飲酒についてもうつ病・自殺との関係を示す証拠はない。Aさんが受診を中断したのは適切な治療を受けられなかったからであり,労働時間を管理する立場にない妻にも何ら責任はないと主張してきた。
判決は,「仕事に厳格で,几帳面,完全指向,責任感が強く,常に仕事に前向きに向かうという・・・うつ病親和性が存したことが,結果として仕事量を増大させ,より時間が必要になり,更に自己の責任とはいえないものまで自己に抱え込み責任を感じて思い悩む状況を作りだした」「社内的には,労働基準法第41条第2号の『管理の地位にある者』であり,原則として労働時間の拘束を受けず,自ら労働時間の管理が可能であったのに,課長からの担当の仕事を引き受けようかとの申出を断る等,適切な業務の遂行,時間配分を誤った面もある」等として,賠償額の5割を減額した(民法722条2項の類推適用)。
5 判決の意義
本判決は,電通過労自殺事件の一,二審判決に続いて過労自殺について使用者責任を認めた。その後,札幌地裁やオタフクソースの事件についての広島地裁が使用者責任を認め,過労自殺について使用者責任を認める判例は定着したといえる。
本件の特徴は,電通事件やオタフクソースの被災者が比較的経験の浅い者であったのに対して,Aさんが経験のある中間管理職だったという点にある。被告もこの点を強調し,「管理の地位にある者」だから労働時間の管理義務はないとか,仕事の経験が長いのだから労働時間の管理も自分でできたはずだと主張していた。しかし,判決はこのような被告の言い分を明確に排斥し,被告の責任を認めた。
このところ業務に関する自殺が極端に増加しており,その中でも中高年の自殺が特に増加している。このような異常な実態に警鐘を鳴らすという意味で,この判決の意義は大きい。
第5 労災認定
1 労働基準監督署長・審査官の決定
前述のように,労働基準監督署等行政機関の恣意的認定を排し,公正な判断をさせるために,訴訟と同時に労災申請をするという方法を選んだ。
しかし,何がなんでも業務外としようという当局の姿勢は頑であった。倉敷労働基準監督署長は,岡山地方裁判所倉敷支部の判決に先立つ1997年7月11日業務外とする決定を行った。過重な負担や長時間労働の実態を認めながらも過小評価し,他方で長男の進学問題(私立大学には合格したものの国立大学に不合格となって浪人を決めたこと)といった,取るに足りないことや,うつ病の一症状である妻をどなったという出来事を家庭内問題が原因とすり替えるという,恣意的な判断だった。私達は直ちに審査請求の手続をとった。
岡山労働者災害補償保険審査官の判断については,既にK社の責任を認める判決が出されていることもあって,正直なところ期待していた。しかし,1999年1月8日になされた決定もお粗末なものだった。
労働実態を綿密に検討した南雲意見書も,審査官自らが意見を求めた加藤伸勝医師が50~60%は過重労働が原因と判断したことも無視し,性格やアルコールが原因と判断する恣意的なものであった。
労災認定手続は本来,行政手続によっておこなうことによって迅速に被災者を救済するための制度とされている。しかし,こと過労死事案については間違いなく労働者いじめの役割を果たしている。過労死事案について言えば,行政による認定手続は有害であり,存在理由を失っていると考える。
2 労働保険審査会の逆転裁決
1999年1月8日の審査官の決定に対して,1月25日労働保険審査会に再審査請求を行ない,再審査請求から3ヶ月経過した後に取消訴訟も提起した。審査官の判断が余りにお粗末だったので,審査官も被告として慰謝料を求める形をとった。
2000年2月3日労働保険審査会において口頭審理が行なわれた。1999年7月労働省の委託により「精神障害等の労災認定に係る専門検討会」(座長原田憲一医師)の報告が出され,これに基づいて9月には労働省が新しく「心理的負荷による精神障害等に係る業務上の判断指針」を示していた。
口頭審理では,倉敷労働基準監督署長や岡山労働者災害補償保険審査官の判断の非常識を全面的に批判するとともに,新基準によれば本件は当然業務上と判断されるべきこと,そうすることこそが労働保険審査会の使命であるとの意見を述べた。
審査員三人は私達の主張によく耳を傾けているようであった。
そしてついに,労働保険審査会は3月23日付けで,倉敷労働基準監督署長の処分を取り消し,業務上と認める裁決を行なった。
審査会は,掛長昇進前(平成2年4月から同年12月)の業務について,常態的に長時間労働が続き,うつ病発病の準備状態を形成する要因たり得る過重な労働であったとした。さらに,掛長昇進後うつ病発病までの業務については,掛長昇進自体社内に反対意見があり,ある程度の精神的負担となっていたと認め,グループの減員と手慣れた従業員から不慣れな者に交替したことがグループ全体の戦力低下となっていた条件の下で,SHHや東京湾横断道用の長尺鋼矢板等の製造問題や,新しい生産システムの設計等困難な課題が増えたと認定した。掛長昇進後の業務について,掛長昇進に伴い,処理すべき業務の範囲が広がり,かつ,非定型的な事務分野が拡大する中でSHHの納期管理等多くの課題があり,戦力の低下,部下への指導の必要が大きいなどの事情が加わって,掛長昇進前に比べて被災者が更に長時間で,格段に精神的負担の多い労働に従事していたことが認められる,と評価した。
その上で,掛長昇進前の長時間労働への従事によるうつ病の準備状態の形成のほか,業務上のストレスが少なくとも他の要因と並んで,うつ病発病の相対的に有力な原因に該当するものと認められる。そして,そのうつ病はその後の業務上の負荷等によって増悪していったものとみるのが相当である,とした。
結局は,岡山地裁倉敷支部判決と同じく,N医師意見書に依拠した結論となっている。
審査会の裁決は,過労自殺について初めて業務上と認定したものであり,従来審査請求から裁決まで数年かかっていたものを1年余りで,しかも口頭審理から1ヶ月余りで結論をだしたという点で画期的なものである。もっとも,本件について先行する事件に先立って優先的に結論を出したということでもあるから,審査会が政治的に(ということは厚生労働省の意向を受けているということ)動いていることを実証する事例ともいえよう。
ただ,早かったのは審査会だけで,最初の申請から数えれば6年間も経過しており,迅速な救済という制度本来の役割を果たしているとは言いがたい。
第6 和解による全面解決
審査会の裁決は2000年2月23日付けでなされたのであるが,実は2月24日電通事件最高裁の情報が先にもたらされていた。
最高裁は電通事件について,被災者の性格などを理由に3割の減額をした東京高裁判決を破棄し差し戻す判決を言い渡し,電通事件は2000年6月23日東京高裁において全面勝利の和解で解決した。
審査会での逆転認定,電通事件の最高裁判決と全面勝利和解という追い風にも助けられて,広島高裁岡山支部の和解勧告を受けて和解協議に入った。
実は妻のSさんやお子さんは必ずしも和解に乗り気ではなかった。しかし,判決で会社の謝罪を勝ち取ることはできないが,和解であれば会社に謝罪させることもできると説明し,協議にはいることを理解して貰った。また,協議の成り行きを直接体験してもらうことが納得に繋がるとの考えから,異例なことではあるが,Sさんに毎回参加して貰った上でK社側弁護士と何度も協議を重ねた。その結果,10月2日全面勝利和解に持ち込むことができた。この間,藤本弁護士を引き継いで電通事件を担当した川人博弁護士から貴重な情報を提供していただいた。
2000年10月2日の和解は一切の減額をさせないだけでなく,はっきりとした謝罪という形をとった点でも意義ある解決だった。裁判所の和解室で裁判官が立ち会って和解条項を確認した後,退席した裁判官と入れ替わりに当時のK社の副所長が入室し,謝罪文を読み上げた後,深々と頭を下げるという実のあるものだった。そして,K社側は後日亡夫のお墓参りをし,毎年の命日にも墓参を続けている。会社の墓参は解決から長期間経過した今年も続いている。Sさんも和解によって解決したことがこのような結果に結びついていると受け止めている。